故郷よりの手紙

日記、感想、メモ、愚痴を書いています。

ロシアによるウクライナ侵攻への所感

条件が揃えば暴力は利益を最大化させるので、暴力は往々にして合理的な場合がある。あまりに有用な戦略なので、社会契約を結び個人レベルの暴力は禁止されるが、国家より上位の共同体がないのだから、戦争は常に選択肢となり得る。極端な例を挙げると、全く罰せられず、報復もできないような弱い相手なら、殺して欲しいものを奪えば良い。すべての動物は暴力を振るうように収斂しており、暴力の最大単位は国家による戦争である。近現代の日本と一部先進国のみを見て、人間は生来人道的で、両手を挙げて微笑めば恒久的に平和が続くと考えている人が多くいるが、それは全く誤りだと思っている。ヒトの本質は共同体外への加害を選好する、最も暴力的な種である。ヒトの報酬系は敵への加害で活発に活動し、よく発達した認知能力は敵の痛みをよく理解し、器用な手先は相手の自由を奪い、様々な道具や武器を利用して多大な苦痛を与える事ができる。情動面でも認知面でも暴力は強いインセンティブを持ち、故に犯罪はなくならない。暴力は進化上かかる淘汰圧への適応的な行動だからである。国家においても、それが合理的な行動であれば、戦争は選択肢になり得る。武力侵攻を肯定は全くしないが、人ごとではないことは確かである。

日本製鉄X線被曝事故の発生

6月2日、朝日新聞により、日本製鉄瀬戸内製鉄所内で作業員二名がX線による被曝を受け、病院へ搬送されたと報じられた。

第一報では事故の詳細や経緯、容態などは不明であるが、作業員が体調不良を訴えたとの記述から、急性放射線障害を発症するほどの高線量被曝事故が起きたことに衝撃を受けた方も多いだろう。

その後、他紙や報道機関から続報が入り、現在も線量評価が行われていること、規定を大幅に超える被曝をしていること、高度被曝医療を行うことのできる広島大学病院に入院中であることなど、少しずつ詳細が判明してきた。

NHKの報道によれば、作業員二名は作業翌日に体調不良を訴え病院を受診したと記載がある。被曝から発症までの時間は重症度に相関するが、30日から現在まで未だに入院中であることから、放射線の危険性について作業員が認識しておらず受診が遅れたのではないだろうか。

今後、血球数や染色体を検査し線量を確定していくと思われるが、もし万一致死量の放射線を被曝していたとなれば大変な事故である。コバルト60などのγ線源と違い、X線照射装置は電源を切れば被曝の恐れがないにもかかわらず、このような事故を起こした企業は人命や安全を著しく軽視しているか、無知で杜撰な管理体制を取っていると言わざるを得ない。

失踪から11年 ネパール人留学生の行方は

2009年8月31日、サヌ・ラル・マハルジャンのもとに一本の電話があった。福岡市にあるアジア日本語学院に留学中の娘、サビナ・マハルジャンが学校にもアパートにもおらず、消息が不明だと言うのだ。

すぐさま父親はネパールの警察に届けを出し、自国と日本の外務省に娘の捜索を依頼した。娘とは5日前の8月26日、電話で話したばかりだった。「お父さん、勉強も順調だし仕事も見つかったよ。心配しないでね、わたしは元気だから」心配する父親に対し、電話でこう伝えたという。

「娘はよく心配しなくていいよ、と言っていました。姉も日本に呼ぶことを考えていたのに。今はどこにいるのかもわからない。」妹と一緒に日本で暮らす事を夢見ていた姉のビナは、今はオーストラリアで暮らしている。

サビナは2年間の課程を履修しており、卒業が間近だった。8月27日、学校に現れなかった為にスタッフが電話したところ、自転車のタイヤがパンクしたから遅刻すると話していたという。これが把握されている最後の消息である。

日本の警察からネパール大使館への報告によれば、数日連絡のつかない事を不審に思った友人達がサビナのアパートを訪ねた。その後、警察が部屋を捜索したところ、自転車を含めたサビナの私物の大半が消えていたという。

在日ネパール大使館から外務省への手紙によると、サビナは拉致されたと警察は見ており、銀行口座と携帯から捜索を行い、ネパール人の若者を容疑者として逮捕した。しかし彼は犯人ではないことが判明した。

失踪からもうすぐ11年が経とうとしているが、未だに有力な手がかりは得られていない。

 

参照:Distraught dad searching for daughter missing in Japan for 8 years-myRepublica

心臓に酸を注射されて殺された少年

2008年10月26日、ハビエルモレナという5歳の少年がメキシコシティの市場で拉致された。誘拐産業が盛んなイスタパラパでは珍しいことではない。貧困家庭の一家は市場で果物を売って生計を立てており、日曜日に市場で遊んでいた少年は姿を消し、二度と帰ってくることはなかった。

地元テレビ局の報道を見たタクシー運転手はハビエルのことを覚えていた。運転手によれば、ハビエルを連れた10代の若者を乗せ、警察署から1ブロック離れた街の外れで降ろしたという。そこでハビエルの母親と落ち合う予定があるとのことだった。ハビエルの母親は運転手に彼の写真を見せたが、そこには家族の友人である17歳の少年も写っていた。驚くべきことに、運転手が乗せた男である。

警察は容疑者の家を急襲し、彼とその家族と、他2名を逮捕した。彼らは、23000ドルの身代金を要求する前にハビエルを殺したと認めた。

ハビエルは心臓に酸を注射されて殺され、メキシコシティ郊外の丘に埋められていた。

2006年、カルデロン就任以降に劇的に悪化した治安は改善を見ず、誘拐が多発するメキシコでは2019年においてもなお、5000人が失踪し発見されていない。

 

参照

Mexico’s homicide count in 2019 among its highest-the Washington post

Kidnappers Inject Acid Into Boy's Heart-CBS news

Mexican Kidnappers Kill 5-Year-Old By Injecting Acid Into His Heart-digital journal

Kidnapped Mexican boy killed by injection of acid-The seattle times

メキシコの惨状 拉致された警官とその息子

YNCに投稿されたとある動画は、目を背けたくなる程の異様な凶行が写っている。

ゲレロ州山間部で撮影された動画は中年の男性とその息子が縛られ、地面に座る二人をアサルトライフルやナイフで武装した男達が取り囲んでいる所から始まる。男達は父親を木の棒で何度も殴りつけたのち、息子の目の前で父親の首を小ぶりなナイフで切断する。海外ネット上を騒然とさせたのはこの後である。男達は息子の左胸にナイフを突き刺し、えぐるように胸部に穴を開ける。必死で抵抗する少年の手足を抑えつけると、右胸部も乱雑に切りつけ、腹部まで肉と皮を削ぎ落とすのだ。左胸の穴からは呼吸とともに膨らむ肺が覗き、皮を剥がれた腹部からは胃が風船のようにはみ出ている。それでもなお少年は生きており、胸骨をナイフで叩き切ると穴に手を入れ、心臓を切り取られてようやく生き絶える。

そのあまりの凄惨な犯行と理不尽な暴力は、見るものを戦慄させる。その様はまるで初期未開社会の壮絶な闘争のようである。人間が国家を持つ前の、狩猟採集民に抱く平和な幻想を打ち砕くような、狩りと戦争に明け暮れていた祖先の遠い暴力を想起させる。

この二人の犠牲者の詳細については分かっていないが、この父親は警察官で、敵対するカルテルに情報を売ったことから息子共々拉致されたのではないかとされている。

メキシコでは40000人と見積もられていた麻薬戦争関連の失踪者が、60000人以上と訂正されて発表された。また、去年だけで31000人が殺害されている。

武器としてのマチェーテ-刃物の脅威-

中南米やアフリカで起きる凶行には、銃火器やガソリンだけでなくマチェーテが使われる。この凶悪な形状の大型の刃物は、人間を殺傷するためでなく、熱帯林の藪払いや農業に用いるために生み出されたものであるが、当該地域では普及しているものだから、文字通りの"肉切り包丁"にも使われるのだ。

マチェーテによる刃傷沙汰で最も有名なものはルワンダの大虐殺だろう。80万もの人々が虐殺されたこのジェノサイドでは、銃火器も使われたがマチェーテも使われた。虐殺の生存者は四肢が欠損している者が少なくなく、そうでなくとも引きつりのような傷跡が20年以上経ってなお残る。

中南米ではご存知のとおり、貧困と麻薬による社会情勢から、ギャングやカルテルが暴力で地域を席巻している。ギャング団はもちろんのこと、最も悪名高いロス・セタスに代表されるカルテルは、ギャングとは一線を画した火力を有するが、報道される事件からも分かるとおり、ナタや斧、ナイフなどを使った凄惨な殺人を実行し続けている。

近世までにおいては、銃火器が普及するまでは、武器といえば鉄製の刃物や弓矢であって、鎧や防具などはそれらに応じて進歩を続けていた。初速が全く異なる矢に対しては鎧や盾は有効であったし、刃物ももちろん通らなかっただろう。生身の人体に対してはオーバーキルな大型の剣は、人間が脆弱な皮膚を守るために纏った金属製の鎧にも打撃を与えうるものだった。

これら隆盛を極めた刃物は、こと日本においては台所に食材を切るために置かれるか、よくて護身用に持つ物もいるかもしれない。刃物の脅威は影を潜め、武器としての剣や刀に比べると、民生用の刃物は取るに足らないものに思える。しかしながらマチェーテなどの大型の刃物は、人体を容易に切断するのだ。刃物に対して人の皮膚はあまりに柔く意味をなさず、骨や関節は細い部分に当たれば冗談のように切れてしまう。指や手首などはその際たるもので、斬り付けられれば吹っ飛んでしまうと考えて良い。マチェーテは軍隊にも導入されていて、現在の刃物の中では最も殺傷力の強い部類に入るが、言ってしまえばあの程度の刃厚と重みと切れ味で、人体など容易に切り込めてしまうのだ。鉄製の強靭な外骨格を捨てた人間は、刃物に対してあまりに無力である。

マフィアの歴史の中で、最も多くの人を殺した男ーリチャードククリンスキの物語

リチャードククリンスキは家族や近所の住人にとって、模範的なアメリカ人に見えた。マフィアと彼の犠牲者から見れば、殺人鬼アイスマンとして知られる悪魔そのものであった。

「あなたは自分のことを殺し屋だと思いますか?」インタビューアーが一度この質問をしている。「そんな呼び方は似つかわしくないと思うよ。」ククリンスキは面白がって微かに微笑んだ。それから真顔になり、「俺はただ人を殺しただけだ。」と控えめに述べた。

ククリンスキはアイスマンの異名で知られ、6人を殺害した罪で服役している。しかし彼は実際には100人以上を殺したと述べ、検察もそれは事実であると考えている。

リチャードククリンスキは1935年4月11日、ジャージーシティアルコール依存症の父と、敬虔で厳格な母の元に生まれた。両親は共に、日常的に彼を殴打していた。父親の暴行は特に酷く、階段からの転落死として処理されているものの、ククリンスキの兄を虐待死させるほどであった。ククリンスキは暴力を受けて育ち、社会に対して暴力を返していった。彼は近所の犬や猫を拷問、殺害した。8年生で学校を退学し、同年14歳で街の悪ガキを撲殺した。この人間嫌いの子供は、195cm、136kgの大男へと成長を遂げる。

1950年代に入り、リチャードククリンスキはマフィアと関係を持つようになった。ククリンスキはイタリアンマフィアのロイデメオに借金を作った。デメオは部下に彼を叩きのめさせ、金を巻き上げようとした際に、暴行を受けても平然としているククリンスキの様子に感銘を受けた。デメオは借金を返済させた後、彼を仲間として引き入れたのだ。ククリンスキはあらゆる種類の犯罪を行うようになった。違法ポルノを密売し、強盗の段取りをたて、マフィアが脅す必要があると感じた人間を痛めつけた。厄介な問題にうまく対処し、継続してデメオの構成員の為に金を稼ぐことができた彼は評価を高めていった。やがて、彼はデメオが属するギャンビーノファミリーの注目を集めるようになる。この時はまだ、ククリンスキは殺し屋ではなかった。あくまで、憂さ晴らしで殺すに過ぎなかった。しかしながら、これがすべての始まりであった。ククリンスキの評判は裏社会の上層、特に、彼を初めてギャングによる殺し屋として雇った、悪名高きデキャバルカンテファミリーにまで広がっていった。彼は殺害方法の探究と、自らの欲求を満たすために人を殺し、プロとしての情熱を携えて新たな職を得ようとしていた。

1954年、彼はマンハッタンのアッパーウエストサイドで獲物を探す為に、ニュージャージーからニューヨークまで定期的に旅行をしていた。被害者はしばしば彼に迷惑をかけた人物であったが、ごく些細なことで殺されることもあった。またある時は、ただ殺すことが目的でランダムに殺害された。殺害方法は彼の気分によって、射殺、刺殺、絞殺、毒殺、撲殺など様々であった。その地域で多発する不審死に、警察の疑いを向けないよう彼は凶器を変えていた。素手での撲殺からアイスピック、手榴弾に至るまであらゆるものを殺人に使用したのだ。証言によれば、シアン化合物が入った鼻腔スプレーが彼のお気に入りだったという。

ククリンスキは変わらずギャンビーノファミリーとデメオからの仕事を行なっており、躊躇いなく進んで殺人を行う彼を、マフィアの同僚たちは恐れ、”悪魔そのもの”と呼んだ。彼は、”女子供は殺さない”というルールを課していた。それさえ守れば、すべては公正だったのだ。ある時、ククリンスキは許しを懇願し、神に祈る男を殺そうとした事があった。ククリンスキはその男に30分時間を与え、祈りに応えて神が介入するのを待った。

“だが神は現れず、その男は状況を変えられなかった。それまでだった。あまり良いものじゃなかったな。俺がやめるべきだったと感じてるのはあの出来事だけだ。”

ククリンスキが後悔を見せたのはその時だけだった。

 

All That's Interestingより"The Story Of Richard Kuklinski — The Most Prolific Hitman In Mafia History"から引用