故郷よりの手紙

日記、感想、メモ、愚痴を書いています。

マフィアの歴史の中で、最も多くの人を殺した男ーリチャードククリンスキの物語

リチャードククリンスキは家族や近所の住人にとって、模範的なアメリカ人に見えた。マフィアと彼の犠牲者から見れば、殺人鬼アイスマンとして知られる悪魔そのものであった。

「あなたは自分のことを殺し屋だと思いますか?」インタビューアーが一度この質問をしている。「そんな呼び方は似つかわしくないと思うよ。」ククリンスキは面白がって微かに微笑んだ。それから真顔になり、「俺はただ人を殺しただけだ。」と控えめに述べた。

ククリンスキはアイスマンの異名で知られ、6人を殺害した罪で服役している。しかし彼は実際には100人以上を殺したと述べ、検察もそれは事実であると考えている。

リチャードククリンスキは1935年4月11日、ジャージーシティアルコール依存症の父と、敬虔で厳格な母の元に生まれた。両親は共に、日常的に彼を殴打していた。父親の暴行は特に酷く、階段からの転落死として処理されているものの、ククリンスキの兄を虐待死させるほどであった。ククリンスキは暴力を受けて育ち、社会に対して暴力を返していった。彼は近所の犬や猫を拷問、殺害した。8年生で学校を退学し、同年14歳で街の悪ガキを撲殺した。この人間嫌いの子供は、195cm、136kgの大男へと成長を遂げる。

1950年代に入り、リチャードククリンスキはマフィアと関係を持つようになった。ククリンスキはイタリアンマフィアのロイデメオに借金を作った。デメオは部下に彼を叩きのめさせ、金を巻き上げようとした際に、暴行を受けても平然としているククリンスキの様子に感銘を受けた。デメオは借金を返済させた後、彼を仲間として引き入れたのだ。ククリンスキはあらゆる種類の犯罪を行うようになった。違法ポルノを密売し、強盗の段取りをたて、マフィアが脅す必要があると感じた人間を痛めつけた。厄介な問題にうまく対処し、継続してデメオの構成員の為に金を稼ぐことができた彼は評価を高めていった。やがて、彼はデメオが属するギャンビーノファミリーの注目を集めるようになる。この時はまだ、ククリンスキは殺し屋ではなかった。あくまで、憂さ晴らしで殺すに過ぎなかった。しかしながら、これがすべての始まりであった。ククリンスキの評判は裏社会の上層、特に、彼を初めてギャングによる殺し屋として雇った、悪名高きデキャバルカンテファミリーにまで広がっていった。彼は殺害方法の探究と、自らの欲求を満たすために人を殺し、プロとしての情熱を携えて新たな職を得ようとしていた。

1954年、彼はマンハッタンのアッパーウエストサイドで獲物を探す為に、ニュージャージーからニューヨークまで定期的に旅行をしていた。被害者はしばしば彼に迷惑をかけた人物であったが、ごく些細なことで殺されることもあった。またある時は、ただ殺すことが目的でランダムに殺害された。殺害方法は彼の気分によって、射殺、刺殺、絞殺、毒殺、撲殺など様々であった。その地域で多発する不審死に、警察の疑いを向けないよう彼は凶器を変えていた。素手での撲殺からアイスピック、手榴弾に至るまであらゆるものを殺人に使用したのだ。証言によれば、シアン化合物が入った鼻腔スプレーが彼のお気に入りだったという。

ククリンスキは変わらずギャンビーノファミリーとデメオからの仕事を行なっており、躊躇いなく進んで殺人を行う彼を、マフィアの同僚たちは恐れ、”悪魔そのもの”と呼んだ。彼は、”女子供は殺さない”というルールを課していた。それさえ守れば、すべては公正だったのだ。ある時、ククリンスキは許しを懇願し、神に祈る男を殺そうとした事があった。ククリンスキはその男に30分時間を与え、祈りに応えて神が介入するのを待った。

“だが神は現れず、その男は状況を変えられなかった。それまでだった。あまり良いものじゃなかったな。俺がやめるべきだったと感じてるのはあの出来事だけだ。”

ククリンスキが後悔を見せたのはその時だけだった。

 

All That's Interestingより"The Story Of Richard Kuklinski — The Most Prolific Hitman In Mafia History"から引用